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段落と改行

「Microsoft Word で段落頭下げをしたい場合に、改行とスペース文字を使うのではなく、段落の属性を設定するのが望ましい」という命題があったとする。こうしたアドバイスを頑なに拒否する人は、じつのところ珍しくない。そういう人たちにそれを強く推奨することの是非はともかく、われわれはこうしたやりとりから何事かを学ぶことができることだけは確かだと思う。

(ごく大雑把に言うと、われわれは行という概念を持っているが、Microsoft Word は段落という概念があるだけで、行という概念はない。だが、これを人が理解するのは、さまざまな理由から、しばしば困難なことなのである。文書の論理構造とデザインの分離というのは、それが極端に主張される場合でなくても、しばしば憎悪の対象になる。そして、それは容易に、そういう主張をする人に対する憎しみになりうる)

新しい概念の獲得が、これほど実用的で効果が目に見えるような場合ですら、反発の対象となりうるというのは、まさに大きな発見である。多くの人が、自分の思考習慣に対して、それがごく些細なもの(たとえば、「文字の位置をずらすためには必要なだけのホワイトスペースを挿入すればいい」)である場合であっても、これに対してたっぷりと自尊心を染み込ませているものなのだ。

こうした人は、「コンピュータは道具である」という当然のことをことさらに言い立てるが、その本心は「道具はそれを使う人のために奉仕すべきである。したがってそれを使用するに当たって、だれかが私に向かって思考習慣を変更せよとか、新しい思考習慣を身につけよとか言うのは不当である。きっと彼らは私の自尊心などには興味がないのだ」というところにあるように思う。一方、技術者と言われる人たちは、道具を成立させている概念を新たに一つ学ぶということが、人間の自尊心を傷つけるような問題であるなどとは、露だに想像できないのである。

しばしば人々は、技術者について「彼は自分が何かの技術思想を獲得したことに対して自尊心を持っていて、それと無縁な人間を見くびっている」と考えがちであるが、それは違うだろう。(自尊心を傷つけられた人間は、その原因を、他の誰かがその自尊心を満足させた結果だと思いたがるものなのだ。)けだし、人間は放っておくと、どんな些細な習慣にも自尊心を染み込ませるものである。技術者は新しい技術思想を獲得するときにこの自然の成行きと無縁であるという点において、むしろ特殊な人間なのであろう。

もっとも、こうした議論は公の場所でするわけにはいかない。なんとなれば、自分の自尊心について語られるほど自尊心を傷つけられることはないからである。

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