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エジソン

子どもの頃から不思議だったことがある。エジソンが、天才とは九十九パーセントの努力と一パーセントの才能である云々と言ったことだ。

何をもって、この数量化すべからざる難問を数字として表現したのか、ということである。

才能や努力の定義は措いておくとして、何事もその達成において、なにがしかの才能となにがしかの努力が必要であることは間違いない。だから、もしエジソンのその言葉から 1 と 99 という数字を取り除いてしまうと、何も表現していないことになる。しかるに、どこから 1 と 99 が、大目に見ても、どこから一方の寡が、他方の多が導かれたのかわかりかねる。つまるところ、彼の言葉は、数を使った比喩で自分の気分を表現したにすぎないのだろう。

そして、このあまり出来のよくない比喩が何を表しているかは、聞いた人次第だ。「ボクは天才って言われるけど、人並以上に努力をしているんだよ」ということが言いたいのだろうか。もっとも、エジソンは「その 1 パーセントが天才を天才たらしめている」云々と続けて言ったとか。こうなると、印象が百八十度変わってくる。「俺の生活のほとんどはお前らと同じ努力によって成り立っているが、お前らと違って才能があるから、天才と呼ばれる仕事ができるのだ」と聞こえてくる。

人間社会は、たとえば保険というものを発明して命に値段をつけ、これをキュウリ何本ぶんといったように表現することを可能ならしめてきた。しかるに、エジソン氏は努力と才能を数量において比較する方法を発明せずに、ごく無邪気にかかる比喩を使ったようだ。(ちなみに、専門家というものは専門外のことについては、かえってロマンチックなものだと言ったのはT・S・エリオットである。)

このやたらとロマンチックな「名言」は、それでも非常にしばしば道徳的ななにがしかを示唆するものとして、引用される。同時に、たぶん全く同じ合理性をもって、非常に不道徳ななにがしかを示唆するものとして引用できるだろう。ただ、後者が行われていないというだけだ。

ともかくそんなわけで、私はこの言葉が、あまり好きになれない。もし私がエジソン氏の友人で、かかることを面と向かって言われたら、「それは素晴しい。ぜひ、その素敵な人を私に紹介してください」と言ったに違いない。

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