カビパン男と私

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「おじさん」「おばさん」「おにいさん」「おねえさん」

おじさんとは何かといえば、中年の男性であり、おばさんとは何かというと、中年の女性である。何を中年というかは議論の分かれる問題であるから、さておく。いまは、一応辞書通りにそう考える。おにいさん、おねえさんを加えて図にすると、表1のようになる。データベースでは、好んでこのような形式でデータが収納される。

表1

表2

われわれは、しばしば同じことを表2のように作る。これは、サンプルが二次元に整理できるということを、よりはっきり表して、プレゼンテーションでは好んで用いられる形だ。

プレゼンテーションで好まれるということは、それが「わかりやすい」からだと一般に考えられているからだろう。

この例は、たまたま二次元データだったので、二次元空間に広がる表でこのように書き表すことができた。次元がもっと増えた場合に備えるならば、表3のような形式が考えられる。

表3

表1、2、3と表現に違いはあるが、いずれも複数の独立したカテゴリーを考えて、各サンプルを各カテゴリーの積によって特徴づけるということに変わりはない。

われわれは、じつにこのような考え方に慣れ親しんでいて、小学校でも場合の数を習う頃には、この考え方を習得していることが期待されているように思える。

ところで、「おじさん」と「おねえさん」の関係は、と問われたらどう答えたらいいだろうか。「おじさん」と「おにいさん」は男性という共通項があり、「おじさん」と「おばさん」は中年という共通項がある。しかし、「おじさん」と「おねえさん」は、カテゴリー上どこも共通点がない。いわば、最も遠い存在である。これが、われわれの「常識」だ。

だが、しばしば常識というのは硬直した思考癖だ。試みに、「おにいさん」にスポットライトを当てて、表2 を見てみよう。もし、この表のセル一つひとつがマンションの部屋を表しているとするならば、「おじさん」は下の階の住人、「おねえさん」は隣の住人である。つまり、壁をはさんで「おにいさん」に接しているという共通点がある。

これだけ聞くと、なんだか子どもっぽい考えのように思えるかもしれない。しかし、実際このような考え方が意味を持つシーンがある。

表4は、ラテン語の amō(私は愛する)という動詞の活用の中から、二つの形を示したものだ。

表4

この二つの活用形は母音が一文字違うというだけで、よく似ている。だが、この二つは、時制と法という二つのカテゴリー分けにおいて違いがある。二点も異るところがあるのに、綴りや発音上の違いはごくわずかなわけで、これは相当に気持ちが悪い。

ちょっと表の書き方を変えて、ついでにもう一つ活用形(amāvī)を書き加えてみる(表5)。

表5

この表を amāvī 視点に立って眺めてみるならば、amāveram は階下の住人で、amāverim は隣りの住人だ。近所の人という共通点を持つ二人が似た形を持っていても、不思議ではないように思えてくる。

ついでに、直説法未来の amāverō と、接続法過去完了の amāvissem を表に加えてみる(表6)。

表6

amāvissem は amāvī は部屋がくっついていないから形が似ていない。一方、amāverō は amāvī の上の階の住人だから、形が似ている。

これは、なかなか面白いことではないかと思う。法と時制という二種類のカテゴリー分けの独立性を無視するかのような、「お隣りさん」という関係が浮かび上がってきたのだ。しかもこの見方をするならば、「誰のお隣りさんなのか」ということが問題にすることになり、表の各セルが対等なものであるという考えは捨てなくてはならなくなる。

われわれは、ラテン語の動詞の活用形を覚えなくても、それが何通りになるのかを計算することができる。つまり、法が二種類、相が二種類、時制が六種類、人称が三種類、数が二種類だ。「場合の数」というやつを考えると、じつに 2x2x6x3x2=144 通りの活用がありうる。(ただし、接続法には未来時制や未来完了時制がないから実際は、2x6x3x2+2x4x3x2=120 通りと少し減る)

こうした「積の法則」で通り数を計算ができるのは、独立したカテゴリー分けというアイディアに慣れ親しんでいたからである。そこには「お隣りさん」というアイディアが入り込む余地はない。

ここまで書いて、私は「初めての Perl」という本に Larry Wall が寄せた、冗談混じりの序文の一節を思い出した。

「しかし過去 20 年以上にわたって、コンピュータ還元主義者たちは直交性の神殿に跪き、次いで立ち上がると、彼らの信奉する禁欲的な清廉さを誰かれとなく説いて回わった。彼らの熱烈だが見当違いの願望は、君たちの心を彼らの思考様式に合うように作り変えて、君たちの思考パターンをある種の超越次元の平原に押し込めることだった。平面に押し込まれるということは、まったく喜びのない存在になってしまうことに等しい」(『初めてのPerl』Randal L, Schwartz著、近藤嘉雪訳、ソフトバンク株式会社、1995年、p.xviii)

我々は、ほとんど本能のように、いろいろなデータを直交座標上の点と考える。しかし、これを果たして単純な進歩と言い切っていいのだろうか。

@kabipanotoko