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教養なるもの

たまには真面目なことを考えてみる。

子どもの頃、老婦人がやっている変な英語塾に通わされた。私が熱心に勉強しないものだから、婆さんは「そんなことでは無教養な○○になる」と言った(○○のところは放送できない用語だった)。私は憤然として、「教養など不要。○○で結構」と小声で言った。もちろん、婆さんはべつに耳が遠くなかったので、後は書くまでもない。(後にその婆さんが脱税で追徴課税されたと新聞のベタ記事で読んだ)

その私も、「古典なんて何の役に立つものか」などとうそぶかれる年齢になってしまった。子どもがそう言うのを妻が聞いて、古典文法は教養なれば必要なりと諭していた。「いかんなあ」と私は思った。べつに古典文法の勉強をやらせることがいかんのではなくて、得体の知れぬ教養なる名のもとに説得しようというところに、ちょっと嫌な思い出が蘇ったのである。古典文法が教養だということは、認めることにしよう。古典文法を学ばねばならぬというのも、首肯しよう。しかし、教養とは何ぞや、何が為に人々は教養を身につけよと言うのか、この問題をちっとは考えてみなければならぬと、私は考えたのである。

ひとまず教養の定義はスキップしてはじめよう。たとえば、古典文法がそれである、というあたりで勘弁してくれ(ヘンリー・ミラーに反論するのはまた別の機会にしよう)。その上で、まず、「教養というのは何の役にも立たん」というのがどういう意味なのかを考えてみる。たしかに、自動車の燃費を削減する役にも立たんし、重回帰分析の説明変数選択の役にも立ちそうもない。難しい裁判に勝てるようになるわけでもないし、世界の乳児死亡率の減少に資するとも思えない。

そそっかしい人は、教養があったほうがカッコいいじゃん、とか、知らないと恥ずかしいじゃんとか(たいがいは非常に厳格な顔をして)言う。これをもって「役に立つ」というのである。しかし、ではどうしてカッコいいのか恥ずかしいのかというと、だいたい答えてくれない。こういうことを言う人は詰まるところ、教養をたんなる「階級の証」として(つまり財や機会の分配に恵まれた人間の証として)、あるいはもっとつつましく遵法精神を持った人間の証として考えているのではないかと疑わしくなってくる。しかし、もしそうであるなら、「幼少時における安定した環境と継続的な資金と時間の受給を何か無駄なことに使えば、その無駄なことの習得が安定した環境と資金と時間の証になるに違いない」という意味であるから、やはり教養そのものは無駄であるということを宣言しているようなものであろう。

もう少し篤実な人なら、温故知新などと言い出すだろうが、温故で就職先が決まるものか。っていうか、温故知新などと本気で信じている人の多くが(あくまでも多くであり、すべてだとは言わぬ)世界の古典を無理やり我田に引き込むような、これまた恐しくそそっかしいことをやっている。これではどうも諸手を挙げて賛成というわけにもいかない(私は荻生徂徠や宮崎市貞のファンなのだ)

もちろん、古典大好きという変り者はいるわけで、そういう人にとってはパチンコや競艇をやっているのとあまり違いがないわけだ。たしかに、こういう人に古典を教われば、「競艇おもしろいぞ、今度連れていってやるよ」という程度の説得力があるが、それで競艇が好きになれる人間ばかりではあるまい。好きでなければ、娯楽の役に立つという説明は不可能だ。

さて、結局のところ、私は「教養というものはたしかに役に立たぬわい」ということを認めるのがフェアだと思う。しかしながら、だからといって「教養というものが必要ない」などと宣言するのは、いささか過激なことに思えて支持できぬ(私はマックス・ウェバーが嫌いなのだ)。

「教養は役に立たない」というのと「教養は必要である」というのは別に矛盾しておらんのではないか。それが矛盾すると考えるためには「役に立たぬものは必要でない」という前提が必要である。そして、どうもこの前提は怪しいように思えるのだ。

役に立つというのは、典型的には目的があって、そのために資することを言う。目的がなければ、役に立つということはあり得ない。ただし、詭弁に陥らぬために、ここでいう目的というものを限定的に捕えるのがよろしかろう。「人類の進歩」とか「人々の幸福」とか「祖国の発展」とか「人生の充実」とか、いかようにも解釈できるものを〈目的〉とすれば、いかなる悪行もそれに「資することになる」だろうからね。一部上場企業への就職とか、財産のある異性との結婚とか、水虫の撲滅とか、釣りの腕前の上達とか、柔道の地区大会優勝とか、そういうものでなければ私は目的として認めぬ。

話をもとに戻すと、ようするに、「教養は役に立たないが、必要である」。では、なぜ教養が必要なのかと問えば、「教養なるものは目的の選択のために必要」ということになる。したがって、目的が決定された後の「役に立つ」という基準を適用すれば、「教養は役に立たない」のが当たり前であり、むしろ役に立ってしまうのは教養の教養らしからぬ部分に過ぎぬということになろう。どうしても「人類の進歩」とか「人間の幸福」のような茫漠たるものを目的として認めなければ気が済まぬ人に向けて敢えて言うならば、(こんな難しい言い方は嫌いなのだが)「かかる茫漠とした〈目的〉を、[何か具体的な手段をとったときにその効果が評価できる程度までに具体化する]ために必要なもの」ってところか。

ここできっとまた、「お前の言っているのは判断力ことであり、教養は知識であるからこれは別物なり」とか「そんな大事なことが教養とかいう古くさいもので決まってしまうのは民主主義に反する」とか色々な異議が出ることは間違いない。知識と判断とを分離するのは不可能であり、個々人の中に存在しなかったものが議論のあとの多数決という過程を経ることによって総意として存在するようになるとは思われぬ、と言っておくことにしよう。

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