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海と坑道

世界(最広義)とはどのようなものか、ニュートンは海のようなものだと言ったという。自らは浜辺で戯れている児の如しということらしい。世界が広い――ということについては、まったく同意する。

しかし自分にとって「世界」が海なのかというと、どうも少し違う。海というのは、見通しがある。あああんなに広いんだと、一目見てわかる。であるからして、自分のやっていることの限界もまたわかる。

私にとっての世界はむしろ山である。山であるといっても、登るべき高い山というわけではない。どれほど大きな山なのかは、さっぱりわからない。自分はその山の中に掘ってあるトンネルの中にいる。坑道と言ったほうが正確だろう。そして、その坑道だけが、自分の知る世界である。

自分はいっしょうけんめい――少なくとも主観的には――トンネルを掘っている。掘れば、石炭が出たり、化石が出たりする。ダイヤだって埋まってないとは限らない。しかし、たいがいは何かに突き当たっても、ただの岩である。じつはそれがレアアースなのかもしれないが、使い道がわからないから自分にとっては岩に過ぎない。いくらかは先人の作った地図の図が役立つときもある。だが、先人の作ったトンネルはすでに埋まっているから掘り直さないといけない。妙なことに、大きな岩が落ちていて、絶対に通れない場合もある。

さらに悪いことに、手掘りのトンネルは、すぐに崩れてくる。だから、いったん掘った場所に時々戻って、腐った支柱を取り替えるくらいのことをやらないといけない。できるだけ自分にとっての世界を広げようとして、あちこち掘ったりもする。あんまり有望でないトンネルにこだわって、何とも掘れなくなってすごすご引き返す。そして、同じトンネルを立派に仕上げたほうがいいのかな、などと迷う。捗る日もあれば、そうでない日もある。がいして、思うようには掘れない。地上に出るなどということは、思いもよらないことだ。トンネル掘りが徒労のように思われることもしばしばである。それは疲れたのだ。疲れたら眠り、覚めたらまた掘る。

トンネル生活にも楽みはある。何が出るかわからない。全体がわからないながらに、なじみのトンネルが広がる。珍しいもの、良きものが出ると、その場所をちゃんと覚えておいて、時々戻ってみる。

子どもの頃は、どうだったか。世界というのは霧のかかった空間だったように思う。大人になったら、霧が晴れて、見通しが良くなるのだと思っていた。だが、大人になってみると、自分は坑道のようなところにいた。

みんなはどんな世界にいるんだろうなあ。

2011-8-25(Thu)

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